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パーカッションニスト カルロス菅野さん

カルロスさんは、少年時代から音楽に触れる環境だったんですか?

子供の頃、両親が音楽好きで、妹がピアノ弾いて、家中で妹のピアノで歌を歌ったりしている変な家族だったんですよ(笑)。多分そういう環境があったからですけど、中学校では自分でフォークのグループを組んで、高校ではブリティッシュロックバンドを組んでいました。

その後19歳でボーカリストとしてお仕事を始められたんですよね。

ギターを弾いたりもしてたのですが、最終的には、歌がメインになっていました。

パーカッションニストになられたきっかけは?

バンドのボーカリストをやっていると、歌のない曲の時に手持ちぶさたになるので、メンバーに勧められてコンガを買ってみたんです。そしたらすごく面白かった。まだ叩き方も分からない時に、ニューヨークから来た有名なパーカッションニストを観に行って「俺がやるのはこれだ」と思ってから、ずっとパーカッションですね。

プロのパーカッションニストとしてライブでのこだわりはありますか。

ミュージシャンとしてのこだわりは、すごくあります。プレイヤーって常に自分達のスキルに挑戦したいわけですよ。だから、時には自分のスキルの限界にトライして、そのことによってお客さんが置き去りにされることがたまにあります。ミュージシャンとミュージシャンでお互い「お前は何ができるんだ」ってことで、ステージの上で勝負してるみたいな。

だから僕はアンダースタンドなことしかしたくない。エンターテイメントとアンダースタンド。それがキーワード。それをやるとイージーな音楽に流れがちなんだけど、イージーにならないギリギリのところでものすごくかっこいいことやっている。すごく聞きやすくてすごく楽しいってなりたいですね。そこが一番のこだわりかな。

この仕事をしていて楽しいなって思う瞬間はいつですか。

楽しいことは、やっぱりお客さんありきです。一番好きなのは、誰も僕らのことを知らないところに行ってコンサートをするのが一番楽しい。つまり演奏が始まると、みんなビックリ仰天して、この人達はなんなんだろうって思うわけですよね。そこから1日経って最後の曲になった時に、お客さんが思いきり楽しそうにしてくれてたってとこに行き着くプロセスが、楽しい。

そのプロセスって明確に分かりますか。

分かります。特に僕がいつもライブをやる時には常に客席を明るくしてお客さんの顔が見えるようにしてもらっているので、1曲1曲変化していくお客さんが見える。その変化を手応えとして自分が楽しんでいるんです。

それを一番実感されたのはいつですか?

オルケスタ・デ・ラルス(以前参加していたバンド)で最初自腹で海外ツアーを始めた時ですね。初日はクイーンズっていうコロンビア人しか住んでいない危険な地域の真ん中のクラブで演奏しました。僕らがセッティングしていると、「あいつら何だ」という目で見られていました。演奏を始める段になっても、お客さんが遠巻きにして誰もフロアに出てこない。でもそこから段々変化していって、3曲目ぐらいから人がフロアに出てきて踊り始めて最後はものすごい興奮のるつぼになって。その1日の変化やギャップがものすごくて。
2週間いたんだけど、最後の2つのクラブになったら、長蛇の列になって。それからスタートして世界を回っていた時も、その変化を日夜感じて、何年間か世界をずっと回っていました。それはすごい経験だったしお客さんの変化を楽しめるようになった原点かもしれないですね。

実際、アメリカにはどのぐらいいらっしゃったのですか?

結局、僕がアメリカにいてバンドで活動していたのは6年間ですね。89年から95年まで。僕の人生の中で、あんなに濃い時間はない。あれを一回通り越しているから何も怖いことはないんです。アメリカではどこに行ってもひどい状態ですから。お客さんは5千人いるんだけどコンサート会場に行っても電気が来てないとか日常茶飯事で。思った通りに事は一切、運ばないとか。

アメリカから日本に戻ってきてオルケスタ・デ・ラルスを抜けられた理由はなんですか?

同じ仕事をしていると、次のステージに進みたくなるんです。次にどうしても行きたくなっちゃうんですよね。デ・ラルスを抜けた時は新しいことをやろうってよりも、とにかく違うことをやりたいという思いが強くありました。何ができるのかって考えた時に、子供の頃からの夢があったのでビッグバンドをやろうと思い、 HYPERLINK 熱帯JAZZ楽団 を結成しました。

熱帯JAZZ楽団を始められて今年で何年目ですか。

12年目ですね。次に行きたいって気持ちもあるんだけど、 HYPERLINK 熱帯JAZZ楽団 に関してはライフワークというか、この先僕の人生には必ずあるものですね。今までは何か壊さないと次のことができなかったけど、壊さずに次にもトライできるとこに来られたのは嬉しいですよね。

その次のトライでアマチュアバンドに対するセミナーをやっていると聞きました。セミナーのことを「クリニック」という言い方にしているのはなぜですか?

手取り足取りレッスンしていくというより、その瞬間で伝えることを伝えていくという診療所みたいなところという意味合いです。いろんなところに行って、音楽を目指してる若い人達に意識を注入したり、スキルの断片を耳打ちしたり。演奏を見せてもらって、そこはこうやるとよくなるよって処方箋を出すみたいなことをしています。

若い頃は、教え始めた瞬間にそこで自分が止まっちゃうような気がして教えるのは嫌いだったのですが、この年齢になったんでいろいろ伝えようと思って始めました。

技術以外にも伝えようと思われていることはありますか?

特に中学高校の吹奏楽の子達には、いろんな苦労していった後にこんな楽しいことが起きるんだよってことを見せたいですね。まだできないだろうけど、これができるようになるんだよってところを味わわせてあげたい。そしたら頑張ってやっていこうと思うわけじゃないですか。朝も放課後も厳しいことを言われて怒られての練習ばかりだと辛いから。

逆に中高生から学ぶことはありますか?

高校生ぐらいだとすごく上手い連中がいっぱいいるから刺激を受けるし、がむしゃらに練習して、「負けるもんか」って気持ちで演奏するのは絶対大事なんですよ。俺達もあの時やったよな、って気持ちをもう一回呼び戻させてくれて。お互いにエネルギーをもらえますね。

音楽を辞めようと思ったことはありますか?

山のようにありますよ。何年かに一度、そう思いますね。やめていれば良かったって思わされることは何回もありましたね。エネルギーが溢れ出てる時は上を向いているけど、下を向かざるをえない時があるんですね。辞めたいなっていつも思うんだけど、どん底まで行った時、ちょっとした光が見えた瞬間にパッと上を向いて行くんです。
何度も何度もあって、デ・ラ・ルスはアメリカでブレイクしたんだけど、帰ってきてから仕事がなくて大変な時期もあったんです。何でこんなことになっちゃったんだ、どうしてこの仕事してるんだって、何度も思いましたよ。

でも何かがあるから、やめられないってことですよね。

その都度、次のチャンスが巡ってくるんですよね。思いの強さだと思うんですけど。僕にはこれしかないんだというところで必ず何か光明が見えてくる。

実は落ちているんだけど、上に昇ってから落ちているから落ちても元のゼロ以下には落ちてないわけですよね。そこからスタートするから、ちょっと上がって落ちてもスタートからはちょっとずつ上がっている。下を向いている時は、ものすごく下降している気分になるんだけど、よく考えてみるとその中で苦しいだけで、そこで光明が見えるとまた上に行ける。下を向いた時に、自分がやろうと思うものが強くあれば。



音楽以外でも熱中されていることはありますか?

必ず熱中する趣味が時代時代であるんですけど、今はフライフィッシングっていう釣りをやっています。結構熱中していて、専門誌の表紙に何回も掲載されました(笑)。

魅力は何ですか?

狩猟本能でしょうね。勝ち・負けじゃないんですよね。魚に対して自分が動物になった感じ。それが楽しくて。山に入る時、気が付きますよ。「ああ、自分も動物なんだな」って。


最後に、今の若い人達に言いたいことを。

テクノロジーとか人間が生み出していく欲求に、どんどん若い人達が翻弄されていってすごく危機的な状況にきている気がするんです。
いろんなしわ寄せがいくと思うんだけど、僕はまず自分の感性に目を向けてもらいたい。情報が多いことがいいことではないんだということにまず気が付いてほしい。
僕らの若い頃には情報がなくて自分達で情報を集めることがモチベーションだったんだけど、溢れる情報の中に身を置いているから、その中で必要な情報を選ぶ能力を身につけなきゃいけなくなったってことが逆にかわいそうに思いますね。雨のように降ってくる情報の中で、どれが自分の欲しい情報なのか分かんない。まずそれに気付いてほしいですね。そのうえで方向や熱意、モチベーションを持てばこれが欲しいって思えるから、その目をどうやって作るか。情報の世界ではなくて生き物としての感性に戻るのが一番だと、僕は思いますね。

どうもありがとうございました。




Profile

カルロス菅野  氏
Karurosu Kanno

1957年東京生まれ。
大学時代を大阪、神戸で過ごす。19才の時ヴォーカリストとして音楽活動を始め、21才でコンガを買ったのがパーカッションとの出合い。'84年、松岡直也グループへの加入でフュージョンシーンの表舞台へ進出を果たすと同時に「日野皓正&ハバタンパ」「VALIS」「日野元彦アバナイ
トロプス」等多くのユニットに参加。'89年に「オルケスタ・デ・ラ・ルス」の一員として自費で訪米し、ニューヨークのクラブ6ヶ所でライブを行う。その後、'90年5月〜95年までオルケスタ・デ・ラ・ルスのリーダーとして世界中を飛び回り、'93年に国連平和賞受賞。'95年にはグラミー賞ノミネートなどデ・ラ・ルスを日本が誇るサルサバンドへと導いた。同年12月、デ・ラ・ルスを脱退。日本の若手トップミュージシャンを集め、“ラテン・ジャズビッグバンド”をコンセプトにした「熱帯JAZZ楽団」を結成。
現在、熱帯JAZZ楽団のプロデューサー、リーダーとして国内で11枚、海外で3枚のアルバムを発表し、'98年、'99年と2年連続でNYの“JVC JAZZ FESTIVAL”に出演。今年6月に12枚目のアルバムと初のVocalベストアルバムを発売予定。
(今年4月からは大阪芸術大学、客員教授を担当する等、パーカッションクリニックやセミナーで後進の育成にも精力的に力を注いでいる。)



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