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村山明さん

『つくる』ということに関しておききしたいのですが。

職人さんの場合やったら作る。僕らは創造の創で創るっていう言い方をするわな。 職人さんは「同じものをいかに手早くできるか」っていうことが仕事ってことになるわけや。それもどんどん変わっていって、 いろんな技術を身につけて、手仕事というようなことでやっている。

今は機械が代行するようになっているからね。 ハンドじゃなしに据え付けの大きな機械が、そういうものを全部代行して、きれいに削るようになるし、 幅のごっつい物も削れるようになっている。だけど仕事としてのきれいさだけで競うと、絶対マシンのほうが負けるわな。

人間がなんで手仕事を必要とするかっていうと、機械はやっぱり工業として成り立つわけやけど、 ただ木というものは絶対『工業』という言葉でかたづけてはいけないと思う。いつどこでひん曲がるやら、 割れるやらというのが木にはあるから、人が板の部分を選択しなきゃいけないな。選ばないかん。 機械の場合、一方から入れたら必ず同じもんが出てくる。この木が生きているか死んでいるか別にしても、 変化するものに対して無理な注文だと思うわな。

だから仕事をするっていうことは、『この木で何個とれるか?』いうて、例えばこれだけ幅あるやん。 こんだけお盆を作ろうってこんなんしたら全然あかんわけや。な?

8個とれたとか、こうしてこうして1個、2個、3個、4個。やっぱここで1個しかとれへとかな。

一番いい場所というのがあると。

そうそう。これやったら、ここで一個とかな。こういうふうに一個しかとれへん。
ここはとれないよっていうことに。

なるほどたとえば粘土だったら、同じ質感だから割り切ることができると。

そうそう。なんぼでも同じ。鉄でも同じやから。ただし、木は違う。

木目も違いますもんね。顔が違うってことですよね。

全部8個とれるかもわからない。6個かもわからないけどね。6個とれても1個も品物にならない。 ものとして。だってこれ3つとったら、確実に品物としてできる。 だから体積割り、面積割りしたってあかんわけや。絶対にな。

割り算じゃないと。

せやから量産にはある意味、向かへんな。今の時代。量産というのは木に対して実に失礼なやり方だと思う。 この木だとすごく長いこと生きている木。そんな木を勝手に人間の都合で邪魔になるからって切り倒して、 きれいな木が出そうやからって何百万もして売って、利益としてとって、僕らもその下のモノを買うてきて使うてるんやけんど、 実際、この木にとっては、そこにおったらもっとずっと死ぬまで長生きできるやんか(笑い)。 なんかのはずみで切られてかわいそうにって思う。

せめて創り手が上手く創ることができれば、人に長いこと使ってもらえて、この木だって長く生きることができるやん。

村山さんのお師匠さん、黒田辰秋さんのことをお聞きしたのですが?当時のエピソードとかあればお聞かせください。

僕らも最初、プロになるまで何させられた言うたら、1週間ビッタリ1日8時間ひたすら刃物を研いでいた。

8時間ずっと。

要は基礎やね。例えばカンナ研ぐ時、この通りスッと動く。手が決まんねん、これ。 砥石の上でな。これができなかったら仕事がでけへんのや。

そういうとこは、きちっとせなアカン。 切ったり貼ったり削ったりはその辺の人でもできる。大切なのは基礎やね。 技・技術もある程度は教わるけどそこから先は自分で見つけなアカン。

良い仕事をするには何が必要なんでしょうか?


苔の一念のように仕事をすることやな。

岩をも通すぐらいに。

もしほんとにその仕事をしたけりゃ、ずっと続けることも大事やろと思うわ。 仕事が忙しい、忙しい」って言うてる時は、実は忙しくない。本当に余裕がなくなったら、そんなこと言うてられへん。 そういう体験を実はもっとせなあかんと思う。6ヶ月徹夜続きとか。徹夜続きで、ただし時間があったら、 昼だろうと夜だろうと時間があったら寝れる時間に寝る。そういうことを3ヶ月や6ヶ月続ける。 自分の限界がどんなとこにあるのかという体験をしなくちゃいけない。

それが今の時代に必要なことやと思う。

使う側の人が『気に入る』ということはどういうこのなんでしょうか?

人の気持ちの中でどのように生きていくかってことやな。創り手はそれを見越さないといけない。 一年経ったら、「こんなん、いやや。持ちたくないわ」ってものを作ってはいけないし。

100年ぐらい、その人に持ってもらいたい。その人が100歳まで生きるかどうかっというのは別にしても。 そういうつもりでものを作っていかないと。

それ素敵ですね。それは買った本人が気に入ってなきゃいけないっていうのと、 木自体も100年間もたなきゃいけないっていう。

意図的に嫌になられるってものは作らない。そういう意味ではできるだけおとなしいものが良い。 だけど創り手っていうのは、すけべ根性があるから、ついつい『何かしてみたい』という意図がでてしまう。 それをどう変化させていくかということを長いスパンの中で考えていかなきゃいけないな。

非常に奥深い見解ですね。

昔よりも明らかに生活様式が変わった。経済効率がいい生活様式に変わった。

豊かな生活いうて品物がたくさん増えているけど、ほんとに愛せるものをほんの4〜5個持ってるほうが、実は豊かやと思う。 そういう生活が本来あったはずや思うねんけんど、いつの間にかたくさんものを持つことが豊かってことになってしまった。 だから実は生活様式が変わって悪くなったのかもしれない。

大量消費、大量生産が決して豊かになるとは考えられないし、 そういうことの考え方自体が、人間が人間を疎外するような考え方やと思う。 嫌やったら別れたらええとか、嫌いな人とは付き合わへんかったらええとか。そうなってしまったのは今の生活様式の問題と思う。

人間同士が互いに疎外しあうという考え方は寂しいですね。

そやね。「お互い」ってことは、同じ権利を持っているということを認めないといけないということ。 自由であるっていうことも。実は息をすることでさえほんとは自由じゃないねんな。 お互いに空気の汚し合いしてんやから。自分一人で生きるんやない。いろんな人がいっぱいいて同じ権利を持って、 同じ喧嘩をしながら同じところにいるっていうことやな。

仕事するっていうのも、ある意味、他人のために仕事をするべきであって、自分のた めにするものではない。

他人のために仕事をするってすごく難しいことだと思いますが?

それのほうが本来、長続きする仕事やと思うな。自分は作るだけ。これを使ってくれる人があったら、 その人が喜んでくれるかどうかっていうことを先に考えたほうがいい。そうでないと仕事は常に変化を望むんだけど、 めまぐるしい変化になりすぎる。

最近のひとは、なんでもかんでも「私が作った」って言ってるけど、「私は作られへん」ねや(笑い)。 いろんな知識があったり、どっかから知識を仕入れてきたり、形を学んだり、そういうことの集積の後にものを作れるわけで、 自分でものを作れたわけやないねん。ただ頭の中で、ほんまに何も見ずに何も音を聞かないで、ご飯だけ食べてて、 そういう情報の何もないとこで生活したら、きっとどうなるってことやな。

限られたものでしょうね。原始人に近いというか。

そう。何かは創るかもしれない。土器とか武器とか。ただ今のように洗練されたもになるに時間がかかる。今あるものは過去の集積やからね。




Profile 村山 明 氏

経歴

1944年 兵庫県尼崎生まれ。
1966年 京都市立美術大学彫刻科卒業 黒田辰秋氏に師事。
1970年 第十七回日本伝統工芸展で朝日新聞社賞受賞

さまざまな作品展で受賞多数。2003年に重要無形文化財(木工芸)保持者認定。
現在は、(社)日本工芸会参与。

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